かむろ坂で知る歌舞伎と浄瑠璃の歴史

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かむろ坂で知る歌舞伎と浄瑠璃の歴史

かむろ坂とは。

東京都品川区西五反田にある「かむろ坂」という坂の名前は、歌舞伎や浄瑠璃で有名な白井権八(別名:平井権八)と遊女・小紫の悲しい物語から来ています。

伝説によると、小紫が使っていた禿(かむろ)がこの付近の池に身を投げたことから、この坂を「かむろ坂」と呼ぶようになったと言われています。

歌舞伎と浄瑠璃の伝説的な人物

歌舞伎と浄瑠璃の伝説的な人物

歌舞伎と浄瑠璃の伝説的な人物

歌舞伎と浄瑠璃の歴史は、数多くの伝説的な人物によって彩られています。その中でも、特に有名な人物を何名かご紹介します。

まず、歌舞伎の創始者である出雲阿国(いずものおくに)は、1603年に京都で初めて歌舞伎を上演しました。阿国は、女性でありながら男性の役を演じ、その美貌と演技力で人々を魅了しました。阿国の歌舞伎は、庶民の間で瞬く間に人気となり、やがて全国に広がっていきました。

浄瑠璃の創始者である豊竹藤太夫(とよたけとうだゆう)は、1624年に京都で初めて浄瑠璃を上演しました。藤太夫は、三味線を弾きながら浄瑠璃を語り、その美声と語りの巧みさで人々を魅了しました。藤太夫の浄瑠璃は、歌舞伎と同様に庶民の間で人気となり、やがて全国に広がっていきました。

歌舞伎と浄瑠璃の代表的な演目である「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」の作者である近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、1653年に大阪で生まれました。門左衛門は、浄瑠璃作家として活躍し、数々の名作を残しました。その中でも、「仮名手本忠臣蔵」は、歌舞伎と浄瑠璃の代表的な演目として現在でも上演されています。

歌舞伎と浄瑠璃の伝説的な人物たちは、その才能と努力によって、日本の伝統芸能の発展に大きく貢献しました。彼らの作品は、今もなお多くの人々に愛され続けています。

小紫の悲しい伝説

小紫の悲しい伝説

小紫の悲しい伝説

歌舞伎と浄瑠璃の歴史を語る上で欠かせないのが、かむろ坂にまつわる小紫の悲しい伝説です。小紫は、江戸時代の初期に日本橋の遊女として働いていた女性で、その美貌と気品で多くの男性を魅了しました。ある日、小紫は歌舞伎役者の中村勘三郎と出会い、二人は恋に落ちます。しかし、彼らを取り巻くさまざまな事情により、二人は結ばれることなく、小紫は心中して果ててしまいます。この悲劇は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として数多く上演され、人々に親しまれてきました。

小紫の悲しい伝説は、かむろ坂に深く根付いており、今でも多くの観光客が訪れるスポットとなっています。坂の途中にある小紫稲荷神社には、小紫の像が祀られており、多くの人が参拝に訪れます。また、坂の周辺には、小紫にちなむ飲食店や土産物店が数多くあり、観光客でにぎわっています。

小紫の悲しい伝説は、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃を代表する恋愛悲劇の一つであり、今でも多くの人々に愛されています。かむろ坂を訪れる際には、ぜひこの伝説について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

かむろ坂に残る歴史の痕跡

かむろ坂に残る歴史の痕跡

かむろ坂は、東京都中央区日本橋兜町から日本橋人形町に抜ける坂道である。この坂は、浄瑠璃や歌舞伎の劇場があったことから、芸能の歴史と深いつながりを持つ場所として知られている。

坂の途中には、浄瑠璃の劇場であった「豊竹座」の跡地がある。「豊竹座」は、1872年(明治5年)に開場し、浄瑠璃を上演する劇場であった。浄瑠璃とは、三味線に合わせて人形を操って演じる人形浄瑠璃や、三味線に合わせて語り物を演じる説教浄瑠璃など、さまざまな芸能の総称である。豊竹座も、明治、大正、昭和にかけて名だたる浄瑠璃師が出演し、多くの演目が上演されてきた。しかし、1945年(昭和20年)の東京大空襲によって焼失し、現在では跡地のみが残っている。

坂の途中には、歌舞伎の劇場であった「市村座」の跡地もある。「市村座」は、1873年(明治6年)に開場し、歌舞伎を上演する劇場であった。歌舞伎とは、音楽や踊り、せりふを組み合わせた日本の伝統芸能である。市村座も、明治、大正、昭和にかけて名だたる歌舞伎俳優が出演し、多くの演目が上演されてきた。しかし、1923年(大正12年)の関東大震災によって焼失し、1932年(昭和7年)に再建されたものの、1945年(昭和20年)の東京大空襲によって再び焼失し、現在では跡地のみが残っている。

かむろ坂には、豊竹座や市村座の跡地以外にも、芸能の歴史を物語る場所が数多くある。芸能の歴史に興味のある人は、ぜひかむろ坂を訪れて、その歴史を肌で感じてみてはいかがだろうか。

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